アイコン脱いで見せてよ

加齢の特徴は羞恥心が薄まることにある。その場で共有されているかも分からない非明文の規範に従って縮こまっているよりも、自分の自由にした方がずっといいと思えてくる。何より自分がやりたいことは自分の中では明文だ。

4月から2ヶ月おきに初対面の集団の中に放り込まれていた。初対面の相手にまず何をするかと言えば自己紹介である。
私はこの自己紹介というやつが昔から苦手だった。考えれば考えるほど自分の中の矛盾した性質にフォーカスしてしまう。根暗だけどお祭りが好きだなんて、同じ嗜好を持つ人が何人いるのだろう。相手の思考と語彙に合うステータスと紹介方法が何なのかを見抜く力さえなかった。
それゆえか、私は親しくなった人にも言っていないことが山ほどある。もちろん秘密にしておきたいことの1つや2つ、誰にでもあるものだろう。だが、それが生活の大半を侵食していたのならば話は別だ。頑張って良く言ってもミステリアスな人である。

10代の頃、現実世界を生きる私とインターネット上で文章として存在する私は別物だと思っていた。現実で正しく聞き取る人のいない話をインターネットはlikeとフォロワーを以って迎え入れてくれた。根暗な祭り好きが大勢いた。
インターネット上に全てを書き散らしたわけでは無論ない。自分が住んでいる場所、女体を持つがゆえの月々の変化とその波及、周囲の人たちのうち何故か精神に荒波を立てていく人について。年齢や性別も明示はせず、一人称をぼやかした。私をこよなく愛して隅々まで読んでくれた人にだけそれらが分かるようにした。
アカウントを何度か乗り換え数を増減させて干支一回り。インターネット上のアイコンが人の形を持ったり、現実世界の知り合いや友人がインターネット上の人になったりした。リアルとネットの境目が薄くなる、パラダイムシフトに等しい出来事だ。
現実世界の私はインターネット文章上の私を、インターネット文章上の私は現実世界の私を「私ではない」と断じていた。今も昔も自己顕示欲は斜め上から見下ろすのが流行りで、それぞれの私がそれぞれの場所で他者の間に割って入って自分の場所を確保するのを、もう一方の私が唾棄すべきこととして見ていた。その場で受け入れられたいという素朴な願いが胸の内で存在することを認めるのが恥ずかしかった。
しかし、何度アカウントを変えても見つけて変わらず愛してくれる人がいること、足を運べば迎え入れてくれる場所があること、朴訥さと吃音のマリネのような話さえ聞いてくれる人がいることがこの12年間かけて骨身にゆっくり浸透していた。自分を受け入れる/受け入れられることを享受できるようになった。

加齢の特徴は羞恥心が薄まることにある。少女よりも中年女の方が近くなってようやく、自分のやりたいことを思いついた時にできるようになってきた。生きやすさが段違いである。
裏表がない、とまではいかないが、衒いがない方が楽だ。芝居がかりたい時のやり方だって知っている。
今は私が好ましく記憶を思い起こす人たちを大切にしたい。10代の私なら小っ恥ずかしがるような文面だが、そんな自分すら頭でも撫でてやりたい。

ねえ、これを見ているのなら、アイコン脱いで見せてよ。君の話ならなんでもいいから、聞かせてほしい。