擬人格

ネットや雑誌や、あるいは小学校の図書館の本なんかに性格診断クイズがよく載っていて、話の種なんかにやってみたりする。大抵そういう診断には適正職業も紹介されていて、10~20数種分の1だと分かっていながら信じるふりをする遊びをしていたりする。診断法が同じクイズからは似たような結果が出て当然だが、私はよく「公務員など決められたルーティンをする仕事には向いていません」と言われてきた。義務教育や高校では5日間学校で決められた科目を決められた時間に学ぶのが基本で、たまにイレギュラーとして遠足や運動会や修学旅行が入るが、私はこのイレギュラーが大嫌いだった。イレギュラーのためにルーティンを壊さざるをえなくなるのを苦手に思っていて、ただ決められた時間黙って過ごせばよいわけでなく自分がやるなんて考えたくもないことをやらなければイレギュラーは終わらないことが嫌いだった。そもそも義務教育のうちは学校自体が嫌いで、学校がやることになぜ付き合わなければいけないのか、と、感情を共有し合う相手がそばにいなかったせいもあって面倒臭く感じていた。ルーティンの時間が流れているうちは、この時間になったら家に帰ることができる、この時間から自分の時間を取り戻すことができると分かっているが、イレギュラーの時間はそうはいかない。一番嫌いなのはイレギュラーが終わった後、その感想の作文を書くことだった。ただこの時間が早く過ぎ去ればいいとしか考えていなかったから言葉にする感慨も生まれようがなく、いつも文字数がどうしたら規定を超えるのか苦心していた。
いま、与えられるイレギュラーはほとんどなくなった状態でルーティンにまみれた生活をしているが、義務教育時代より生きやすいかと尋ねられたとしてそれに誠実に答えるならば、そうでもない、と言うほかない。ルーティンにとらわれすぎていて自分のやりたいことさえ思いつかない状況だ。どうしたらこの重ったるい頭を軽くできるのか、他人よりもよくよく知っていておかしくないのだが、自分も救ってやることさえできないなんて人間未満に育ってしまったなあと思う。無駄に時間だけを食っている。何が必要なのかはなんとなく分かっているつもりでいるが、それらを手に入れるためにこのあまりに重い体を動かす力がない。本当はできるのに、と思っているから、動けないことに苛立ちを感じていて、それがさらに頭を曇らせる。
自分と向き合う時間を減らせればそれでも楽になるだろうが、溜まったものを排出する過程でどうしたって自分と向き合わなければならないことを趣味にしていると趣味のことを考えるだけで気が滅入る。これは別の人のお話だからね、って言って、妖怪退治とかしてほしい。
艦これやとうらぶのキャラが、人格を持たされているのに道具として扱われ道具としての目的を完遂することに対して誇りと喜びを、多少の衒いはあっても堂々と表現していることが羨ましく思う。理由があってもなくてもきみが必要なんだよって言われたいし、それによってどんな関係性が築かれるのかさえ言われた後で考えたっていいと思う。自分の価値を計りかねているし、他者を他と交じり合いようのない人格としてきちんと尊重したいけれど、尊重すること自体が私のキャパシティを遥か超える行為である。人のことはどうしたって好きなのに、好きなあまり変な行動をしてしまうし、大切にする方法がどこか間違っているのには気づいているがどうやって直せばよいか分からない。
好きなことを好きでいつづけるのも、嫌いになったら自分が苦しいものを嫌いでいることもどちらもつらい。一度口にしたことを曲げるほうがもっとつらいから、自分のことに限れば3種類くらいの言語と非言語で考える生き物としてどこまで美しくあれるか、なのだろうと思う。